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第70号 高橋準二/平等文博責任編集号 一九九九年一一月三〇日

 

梟vs.雄鶏 唯物論者の祈り…?! 笹田利光(1)
特集 生と死と唯物論    特集リード 高橋準二(6)生命操作と批判の視点 平等文博(8)

倫理に関する唯物論の立場―生と死にかかわる道徳的思考のまえおき 高橋準二(28)

ピーター・シンガーと「生と死の倫理」 樫 則章(55)

無神論(唯物論)者の葬儀と墓 藤田友治(62)

生殖補助医療について―金城清子『生殖革命と人権』 『生命誕生をめぐるバイオエシックス』を素材として 小川富之(75)

身体をめぐる一考察―不倫、性転換、美容整形  小林昌廣(85)

yuiken言いたい放題    学ぶことと考えること 義積弘幸(91)

中国三都の旅(八月一九日~二六日)の印象 宮前泰雄(92)
日中哲学交流中国社会科学院哲学研究所・大阪哲学学校訪中団交流会の報告 リード 山口 協(121)大阪哲学学校、大阪唯物論研究会、季報『唯物論研究』の沿革 平等文博(122)

アソシエーションをめぐる最近の動向 田畑 稔(126)

中国社会科学院哲学研究所の紹介 李徳順(131)

改革開放以降のマルクス主義哲学研究におけるいくつかの問題 劉奔(134)

建国五〇周年を迎える中国の横顔―研修旅行・交流会補遺 山口 協(138)

中国三都(北京・南京・上海)の旅―大阪哲学学校第3回研究旅行(一九九九・八・一九~二六)      木村倫幸(115)
論文ほか

続・「対話・現代アメリカ思想」のためのプログラム 山本晴義(95)

私にとっての《親子関係》 桐生昭男(108)

解説・桐生親子と私    鈴木 正(108)

改革開放政策下における中国の哲学の現状 昨年一二月の関西での講演 劉奔(142)

対談 ジャパン・イデオロギー批判(下)大越愛子/(聞き手)小倉虫太郎・町口哲生(156)
書評 川端基夫『アジア市場幻想論』    山口 協(169)
大阪哲学学校のページ (173)  季報『唯物論研究』案内      (174)新刊案内 (175) 

編集後記    平等文博(176)

 

第71号 二〇〇〇年二月二九日

 

梟vs.雄鶏 結の世紀へ 平等文博(1)
特集 二〇世紀、そして二一世紀   特集リード 田畑 稔(5)二〇世紀の越え方 松田 博(6) 資本主義巨大な〈暴力の体系〉の頂点にまで昇りつめた〈資本の論理〉を 二一世紀の人類はのりこえうるか 橋本 剛(7)

新自由主義を左からのり超えること 高橋準二(10)二一世紀、マルクス、経済学 宇仁宏幸(15)

現代の金融頭脳集団・ヘッジファンドについて 泊 寛二(18)

 ヨーロッパと日本「もう一つの道」の模索―「アジア共同体」の条件 小嶋康生(22)

再び脱亜入欧を果たすために 清水 誠(28)教育の問題と日本人のゆくえ 島崎 隆(31) 

現代テクノロジー生殖革命と女性身体 河上睦子(35)

身体的スケールからの爆発的乖離 村山 章(39)

インタビュー「二〇世紀、そして二一世紀?」  町口哲生/ききて A(42) 

教育同和・人権教育をふりかえって 梅川邦夫(45)二〇世紀をどう問い直すか 藤田友治(48)

二一世紀を展望した教育のあり方について 堀部恵司(50) 

生活世界 二一世紀の精神障害者―競争社会を闊歩せよ 義積弘幸(53)

「雲」その序 片栗葉子(56) 

思想の検証日本近代においての哲学の位置 ―それを知りたい素人の一人として 小田切秀雄(60)

二〇世紀に見出した羅針盤の断片を手にしつつ 深江 浩(63)

言葉への批判から 野波俊一(66)いま一度「祖国」「国民」について考える 小野正嗣(69) 

構造と主体反「主体」の思想 石井 潔(73)マルクス主義のパラダイム転換 岩淵慶一(76)

自体性の知―徹底した唯物論について 石田嘉幸(83)二一世紀への課題・私論 山本晴義(88)

客観的にして主体的 柴田隆行(92)

進路新しい社会創造の戦略・序論 ―市民セクター、地域自立、エコロジー、フェミニズム、市民社会 丸山茂樹(94)二一世紀の開始を目前にして 西田照見(99)

私の日本「列島改造論」―ひとつのユートピア 西川富雄(103)

二千年代を迎えて「グローバル憲法」を  やすいゆたか(112)

市民自治、そして二一世紀 羽田直也(113)

対談 トランス・クリティークとアソシエーション 柄谷行人/田畑 稔(117)
書評 柄谷行人編著『可能なるコミュニズム』    木村倫幸(152)

   藤田友治『三角縁神獣鏡―その謎を解明する』  やすいゆたか(156)
新刊案内(160) 研究会〈二一世紀の世界と思想〉(161) 大阪哲学学校のページ (162)

季報『唯物論研究』案内 (163) 編集後記  田畑 稔(164)

 

 

第72号 松田博責任編集 二〇〇〇年五月三一日

 

梟vs.雄鶏 日本の課題、本誌の課題 高橋準二(1)
特集 グラムシ『獄中ノート』校訂版研究Part2

 『獄中ノート』校訂判研究の意義と課題・再論 松田 博(6)

グラムシ「人間」論の論理と射程(上)―関係主義的解釈の批判 鈴木富久(17)

『獄中ノート』におけるマルクス「経済学批判」序言の位置 ―1977年国際グラムシ研究会議(フィレンツェ)での報告を読んで 小原耕一(34)

グラムシにおける歴史主義の形成―Q7哲学メモの展開(3) 川上恵江(52)

グラムシとクローチェ哲学の「改作」(上)―第10ノート覚書 田畑 稔(68) 

「南部問題についての覚え書き」再読 姜 玉楚(79)
yuiken言いたい放題   アーレントからみた在日問題 町口哲生(94)思索と年齢 義積弘幸(97)私にとってキリスト教とは何か 伊藤誠悟(98)
論文ほか 最近の日本のアソシエーション論について 松尾 匡(103)

大杉栄と哲学―『生の闘争』をよむ 鈴木 正(126)

「魏志倭人伝」は歴史資料に値しないか ―西尾幹二『国民の歴史』をどう批判するか 藤田友治(130)

広西元信さんを追悼する 村岡 到(143)
書評 柄谷行人『倫理21』 木村倫幸(146)

   アンソニー・ギデンズ『第三の道』 山口 協(149)
大阪哲学学校のページ (154)  新刊案内  (155) 季報『唯物論研究』案内 (156)

編集後記  松田 博(157)

 

第73号 二〇〇〇年八月三一日

 

梟vs.雄鶏 グローバリゼーションとアソシエーション 山本晴義(1)
特集 二一世紀の唯物論     近代唯物論批判としての物象化論 日山紀彦(8)

心の唯物論をめぐる最近の英米哲学の論争 武田一博(17)

チョムスキー理論の陥穽と唯物論―言語過程説とその意義 柴崎 律(39)

「自然史」解読の試み 服部健二(52)日常知と科学知 ―唯物論的認識論の再出発 高橋準二(67)

マルクス存在論と心身問題・覚書 平野 啓(94)
yuiken言いたい放題  実りある社会主義の論座のために 鈴木 正(114)

再読の楽しみ―小林秀雄『近代絵画』 義積弘幸(116)
論文ほか グラムシ「人間」論の論理と射程(下) ―関係主義的解釈の批判   鈴木富久(118)

小田切秀雄さんを偲ぶ 丸山珪一(135)

対話・ハーバーマスとウォーラースティン 山本晴義(139)
書評 服部健二『西田哲学と左派の人たち』 高根英博(143) 

   丸川哲史『台湾、ポストコロニアルの身体』 山口 協(146)
大阪哲学学校のページ (151) 新刊案内    (152)季報『唯物論研究』案内 (153) 

編集後記  田畑 稔(154)

 

第74号 町口哲生責任編集 二〇〇〇年一一月三〇日

 

梟vs.雄鶏 『脳男』をめぐる問題 木村倫幸(1)
特集 ジェンダーとナショナリティー  

 インタビュー 帝国のフェミニズム   鈴木裕子/ききて 町口哲生(6)

インタビュー 難民としての在日朝鮮人 徐京植/ききて 町口哲生(32)

刻印……名指す/名指されること 金井聖一(49)

対談 女性国際戦犯法廷に向けて   大越愛子/町口哲生(61)

座談会 韓国文化研究会って何?  金友子/劉永泰/石川雅也/町口哲生(司会)(74)

植民地における宗教政策―韓国における「神社」建立とその布教をめぐって全 成坤(90)
yuiken言いたい放題  事実に踏まえた論議を希望する―鈴木正氏の誹謗に答える 村岡 到(102)
論文  政治的多元主義とラディカルな分権化―ニュー・レイバーの政治思想 捧 堅二(105)

補論 対話・ハーバーマスとウォーラースティン 山本晴義(130)
書評 やすいゆたか『イエスは食べられて復活した』 室伏志畔(137)

   黒沢惟昭『国家・市民社会と教育の位相』 藤田友治(139)

   藤田友治『前方後円墳―その起源を解明する』 梅川邦夫(142)
大阪哲学学校のページ (146)  新刊案内   (147)  季報『唯物論研究』案内 (148)

編集後記 田畑 稔(149)

 

 

第75号 二〇〇一年二月二八日
 

梟vs.雄鶏 キャシアスにアソシエーションが実践できるか 田畑 稔(1)

特集 現代中国のアウトライン  現代中国のアウトライン―特集リードをかねて 山口 協(8)

改革開放政策の唯物弁証法的展開―新情勢下の『実践論』と『矛盾論』 凌 星光(18)

中国における「人権」と言論の自由 石塚 迅(31)

中国の日本式クルマ社会化を哲学する 山口 勇(48)侵略戦争と性暴力 津田道夫(65)

中国研修の旅から(1)―長春、ジャムス、ハルビン 黒沢惟昭(84)

中国に寄せる実感―憧憬から観察へ 鈴木 正(92)

最近の中国の考古学界―三角縁神獣鏡をめぐって 藤田友治(95)
yuiken交差点  日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷の報告 金 友子(99)
論文 

道徳感情と倫理学の課題―アダム・スミスの『道徳感情論』を手がかりに(1)高橋準二(102)

書評 A・レプレ『囚われ人アントニオ・グラムシ』 松田 博(121)

   梅原猛『法然の哀しみ』梅原猛著作集第一〇巻    稲岡義朗(124)

   黒沢惟昭/張梅『現代中国と教師教育―日中比較教育研究序説』 木村倫幸(128)

   N・ボッビオ『グラムシ思想の再検討―市民社会・政治文化・弁証法』  大関雅弘(132)

   藤田友治『魏志倭人伝の解明』 伊ヶ崎淑彦(136)
資料 マルクス・レーニン主義に関する根本的な質問 三浦つとむ(D-1)
大阪哲学学校のページ (140) 新刊案内 (142)季報『唯物論研究』案内 (141) 

編集後記   山口 協(143)

 

第76号 やすいゆたか責任編集 二〇〇一年五月三一日
 

梟vs.雄鶏 日本の経済構造改革は成功するか 宇仁宏幸(1)

特集 西田哲学と左派の人たち

特集リード なぜ、いま、西田哲学と左派を取り上げるのか   やすいゆたか(7)

西田哲学と左派の人たち 服部健二(9)西田から左派は何を学んだか 西川富雄(22)

三木清をめぐって 清水正徳(38)三木清と西田幾多郎における人間観の転換 やすいゆたか(51)

マンガ 唯物論としての西田哲学へ―西田哲学と〈物質〉 高根英博(69)
yuiken交差点 南無阿弥陀仏で救われる!? 稲岡義朗(76)

唯物論的に人間を論じることの必要性 藤田茂信(78)
論文など  芝田進午さんを悼む 石井伸男(81)

翻訳・解題 人権準則に基づく国家統治と新しい国家哲学 ―国際人権規約と中国憲法の改正 杜鋼建/石塚 迅訳(84)

〈ジョン・レノン〉を聴き終えて―信仰は賭けではないのか 義積弘幸(90)

道徳感情と倫理学の課題―アダム・スミス『道徳感情論』を手がかりに(2)高橋準二(98)
書評 松尾 匡『近代の復権』 西 淳(119) 
二一世紀研究会からのお知らせ(80) 大阪哲学学校のページ(122)新刊案内 (124)季報『唯物論研究』案内(123) 編集後記 やすいゆたか(125)

 

第77号 松田博責任編集  二〇〇一年八月三一日

 

梟vs.雄鶏 公共事業という犯罪―川辺川ダム問題を通して考える 稲岡義朗(1)
特集 グラムシ思想のアクチュアリティ   グラムシ思想の現代的意義に関する試論 松田 博(8)グラムシのリソルジメント論―民主派とジャコバン主義をめぐって 黒須純一郎(16)

グラムシと「全体主義的な社会の構想者」―フランスにおける近年の研究との関連で深澤 敦(23)

グラムシの「市民社会」とレーニン 鈴木富久(30)

グラムシアン・グローバリズムの意義について ―グローバル・ヘゲモニーとグローバル市民社会 高嶋正晴(38)

グラムシ「サバルタン」論とEZLNの「国民」主義 小澤卓也(46)

《東欧革命》とグラムシ思想―チェコスロバキアの民主化改革と「受動的革命」の概念 西角純志(54)民主主義とアソシエーション・序説 形野清貴(64)

『グラムシ獄中からの手紙』を読んで 堀 雅晴(73)宗教と心の平静  ベネデット・クローチェ/小原耕一訳(80)
yuiken交差点 『新しい歴史教科書』の歴史観 山本晴義(84)精神障害と責任能力 宮地達夫(88)唯物論は生命活動を前提にする 堀本秀生(91) 記憶と魂―哲学的覚え書 義積弘幸(94)
論文など

 アソシエーション理論の基礎概念―マルクスによるプルードン批判の限界から読みとる 鈴木啓史(96)
書評 古田武彦著『古代史の十字路・万葉批判』 室伏志畔(115)

竹中恵美子編『労働とジェンダー』 木村倫幸(119)
大阪哲学学校のページ (126)  新刊案内   (128)季報『唯物論研究』案内 (127)

編集後記   松田 博(129)

 

 

第78号 柴田隆行責任編集 二〇〇一年一一月三〇日

 

梟vs.雄鶏 法の公共性と他者 服部健二(1)
特集 フォイエルバッハと啓蒙   フォイエルバッハと啓蒙―特集リードをかねて 柴田隆行(6)フォイエルバッハと啓蒙―歴史的再構成のために フランチェスコ・トマソーニ/柴田隆行訳(14)

自然感覚と観想的理性 ―ヨゼフ・ヴィーニガー「フォイエルバッハ、ドイツ啓蒙家」に則して川本 隆(31)

対立から統一へ―C・ヴェックヴェルト「キリスト教市民世界の危機: フォイエルバッハによる人間の新たな統一と共同の時代の基礎づけ」 片山善博(43)

フォイエルバッハの自然主義―ヨアヒム・カール著「ルートヴィヒ・ フォイエルバッハによる自然主義の哲学への寄与」を評しつつ 中畑邦夫(53)
《緊急小特集》「9・11米国中枢同時テロ」

私はこう思うアフガン戦争の第二局面を占う いいだもも(62)

「自衛」する幻想的な諸主体の限界 石田嘉幸(63)

アメリカ同時併発テロ事件の国際法による事件解決を 石塚正英(64)

今回、米国を襲った同時多発テロは… 小野正嗣(65) 何をなすべきか 小嶋康生(66)

アメリカのジレンマ 柴田隆行(68) それならお前が行け 鈴木 正(68)

テロとはなんでしょう。… 高根英博(70) 二一世紀の試金石としての九月一一日 田畑 稔(70)

石橋湛山にも近来の日本共産党にも学ぶ必要 西田照美(72) 深化す日常的不安 野波俊一(73)

〈殺戮と破壊〉のいかなる暴力も〈正義〉とは無関係だ 橋本 剛(74)

“暴力”に対して戦争で対抗するな 藤田友治(75) 私の旗 松田 博(76)

9・11米国中枢同時テロに寄せて 丸山珪一(78)

差別と抑圧をなくする対案の大衆的な実践が、戦争と海外派兵とテロを根絶する 丸山茂樹(79)

「ヨハネ黙示禄」の世界が、… やすいゆたか(80)

さらなる犠牲を生み出さないために 山口 協(81)

アメリカの対アフガン軍事行動は…  山下東彦(82)

二〇〇一年九月一一日について 山本晴義(83)
石堂清倫さん追悼  リード 田畑 稔(84)石堂清倫先生追悼 宝木武則(85)

石堂清倫氏追悼 松田 博(86)石堂清倫さんの思い出―中野重治の縁で 丸山珪一(90)

石堂清倫さんのこと 山本晴義(94)石堂清倫と天皇制 室伏志畔(96)
高橋準二さん追悼  高橋準二さん略歴(115)高橋準二さん執筆目録(115)

おわかれのことば 山本晴義(116)おわかれのことば  田畑 稔(117)高橋さんの思い出 稲岡義朗(118)

現代アメリカ思想 山本晴義(120)
報告・日中学術シンポジウム  八月の北京―日中学術シンポジウムをめぐって 山本晴義(152)

「新しい公民教科書」批判 平等文博(153)

「反面教師」としての『新しい歴史教科書』 山口 協(156)
yuiken交差点 「つくる会」教科書を批判してみて―在日朝鮮人/女性/(十年前の)中学生の視点から金 友子(161)
書評 石堂清倫『二〇世紀の意味』 木村倫幸(166)

   鶴見/鈴木/いいだ共著『転向再論』   室伏志畔(169)

   高野和明『13階段』 木村倫幸(176)

大阪哲学学校のページ (180) 新刊案内 (181) 季報『唯物論研究』案内 (182) 

編集後記   山口 協(183)

 

第79号 丸山珪一責任編集 二〇〇二年二月二八日

 

梟vs.雄鶏 戦争と人道 山口 協(1)
特集 生誕百年の中野重治 

 中野重治の「文学者」という言葉に寄せて―生誕百年に思う 丸山珪一(6)

〈対談〉生誕百年を迎える中野重治の今日 満田郁夫/丸山珪一(12)

「はたを露骨に刺激する類の病的潔癖」について 大西巨人(33)

回想の中野重治 津田道夫(38) 中野重治と森山啓 小川重明(53)

中野重治と金龍済 大牧冨士夫(68) 「第三班長と木島一等兵」私見 亀島貞夫(71)

シュティルナーの末裔と「批評の人間性」―文学的自由主義との闘い  林 淑美(87)

美をねじまげる―『むらぎも』(一)をめぐって    金山嘉城(105)

中野重治の戦後再出発―『甲乙丙丁』の二つのエピソードから 並木洋之(115)

中野重治と「日本のこえ」 高橋克博(131)

稀少派の二〇世紀ロマン―『甲乙丙丁』について(未完遺稿) 菊池章一(138)

中野重治の神がかり 野波俊一(145)

論文など

 「自己自身を啓蒙する啓蒙」と感性的・身体的理性 ウルズラ・ライテマイヤー「フォイエルバッハと啓蒙」に即して 木村 博(153)

「石堂清倫研究」へのよびかけ 鈴木 正(162)

天磐船と戦後考古学―舟葬論 南船北馬の向こう側① 室伏志畔(163)
書評 社会主義理論学会編『二一世紀社会主義への挑戦』 木村倫幸(181)

   吉田傑俊編・解題『戸坂潤の哲学』 服部健二(190)

   室伏志畔『白村江の戦いと大東亜戦争[比較・敗戦後論]』 神村隆志(196)
大阪哲学学校のページ (199)  新刊案内     (200)季報『唯物論研究』案内 (201)

編集後記  丸山珪一(202)

 

第80号 小野暸責任編集 二〇〇二年五月三一日

 

梟vs.雄鶏 「神はどこにいるのか?」―"Nowhere !"と答えよ、されど… 笹田利光(1)
特集 内部観測と複雑系の新地平  特集リード 小野 瞭(7)

物質を見直す―内部観測から 松野孝一郎(8)

内部観測―原生交換にみる懐疑論のクリプキ的転回  郡司ペギオ幸夫/高橋達二(23)

複雑系、内部観測そして数学 角田秀一郎(41)制御不可能性を擁護する態度 櫻沢 繁(51)

壊れゆく生物、紡ぎ出される自律性 森山 徹(64)複雑学とは何か 小野 暸(75)
yuiken交差点 「回想の中野重治」を読んで 草間健介(89)

他者との対話能力について 山本晴義(92)
論文など 現代アメリカ思想Ⅱ―グローバリゼーションとポストコロニアリズム 山本晴義(94)

九州王朝説の向こう側―継承論  南船北馬の向こう側② 室伏志畔(122)
内田穣吉 追悼  内田穣吉氏へのレクイエム 吉村 励(141)

エリツィンに噛みついた内田さん 小嶋康生(143) 内田穣吉先生を偲んで 山本晴義(145)
書評 西川富雄『環境哲学への招待』 山口 協(147)

   大藪龍介『マルクス派の革命論・再読』 上島 武(150)

   黒沢惟昭『疎外と教育の思想と哲学』 藤田友治(152)

   いいだ/生田/栗木/栗栖/小西『検証 内ゲバ―日本社会運動史の負の教訓』 橋本剛(155)

   渡辺憲正『イデオロギー論の再構築―マルクスの読解から』 木村倫幸(164)

   木村勲『風景ゆめうつつ―人々の都市物語』 高根英博(168)

   内田宜人『戦後より』 泊 寛二(170)
大阪哲学学校のページ (174) / 新刊案内   (175) 季報『唯物論研究』案内 (176)

編集後記  小野 瞭(177)

 

第81号 二〇〇二年八月三一日

 

梟vs.雄鶏 サッカー・W杯で歌われた「国歌」 藤田友治(1)
特集 憲法第九条・戦争責任・国際人道法

 有事法案が開示したもの―憲法第九条の人類史的な位置と意味 伊藤成彦(5)

「九条」の心とわたし 鈴木 正(16)

「国家」を超えていく道―日本自衛隊の国連常備軍化構想 小野 暸(21)

「グローバル憲法草案」をみんなでつくろう やすいゆたか(38)

グローバリゼーションと新しい国際主義 捧 堅二(51)

ブッシュの新たな教説 リチャード・フォーク/山口協訳(69)

歴史教育における戦争責任 藤田友治(81)

yuiken交差点  記憶と歴史―哲学的覚え書(2) 義積弘幸(93)
論文など

 『獄中ノート』第6ノート草稿79(Q6§79B)グラムシ/小原耕一訳/解題 松田博(95)

原大和隠しと天皇制―復原論 南船北馬の向こう側③ 室伏志畔(102)
書評 L・シービンガー『ジェンダーは科学を変える!?』 木村倫幸(123)

   伊藤晃『日本労働組合評議会の研究―一九二〇年代労働運動の光芒』 脇田憲一(127)

   横田克巳『愚かな国の、しなやか市民』 柏井宏之(130)

   大塚英志『サブカルチャー反戦論』 室伏志畔(132)
大阪哲学学校のページ (137)  新刊案内     (138)季報『唯物論研究』案内 (139)

編集後記  田畑 稔(140)

 

 

第82号 二〇〇二年一一月三〇日

 

梟vs.雄鶏 「日本のアイデンティティー」の問題をめぐって 木村倫幸(1)
特集 二一世紀と唯物論の存在理由 二一世紀と「批判的唯物論」の存在理由 田畑 稔(8)

「唯物論」の批判的検討 服部健二(27)物質をいかに内在化するか 石田嘉幸(43)

「新しい思考」を求めて 榎原 均(49)モノとは何か? 小野 暸(53)

唯物論のための若干のプロポ―アフォリズム風に? 笹田利光(58)

マルクス主義死すとも唯物論は死せず 柴崎 律(60)

吾、ただ唯物論の足るを知る 高根英博(63)私にとって唯物論とは何であるか 藤田友治(69)

二一世紀、哲学的苦悶の存在理由 村山 章(72)今でも唯物論者ですか?    やすいゆたか(78)

脳と記憶と唯物論―故高橋準二氏に捧ぐ 義積弘幸(84)
論文など 続・回想の中野重治 津田道夫(87)

「凍える音楽」の裏舞台―薬師寺論 南船北馬の向こう側④ 室伏志畔(101)
書評 藤田友治/王金林編『日本の教科書の歴史観を問う―教科書問題をめぐる日中学術交流』黒沢   惟昭(114)

   室伏志畔『万葉集の向こう側―もうひとつの伽耶』    添田 馨(119)

   鈴木正『増補・狩野亨吉の思想』    藤田友治(122)

   藤田友治編『古代日本と神仙思想』    梅川邦夫(124)

大阪哲学学校のページ (129)季報『唯物論研究』案内   (130)新刊案内   (131)

編集後記  山口 協(132)

 

 

第83号 二〇〇三年二月二八日

 

梟vs.雄鶏 

なぜ日本でだけ経済停滞が続くのか―スウェーデン、ノルウェーとの比較宇仁宏幸(1)

特集 歴史と哲学

 マルクス「歴史哲学」の基幹構図と「アソシエーション論」 日山紀彦(8

哲学と歴史学―唯物論的歴史観において(1) 西田照見(29)

多元的歴史観 藤田友治(45)

江上波夫追悼―騎馬民族征服王朝説の転生のために 室伏志畔(51)
yuiken交差点 反戦平和運動から反「新自由主義」運動へ 梁 峻豪(61)

講座「現代アメリカ思想」を終えて 山本晴義(64)

丸山珪一「石堂清倫さんの思い出」について 犬丸義一(68)

昭和ヒト桁の語り種―続「九条」の心とわたし 鈴木 正(69) 〈愛〉について 義積弘幸(73)
論文など

 現代アメリカ思想Ⅲ―「アメリカ・リベラリズム」の崩壊とニューレフト山本晴義(75)

グラムシにおける「史的唯物論」から「実践の哲学」への転回 ―ザンゲリ論文の解題を兼ねて 小原耕一(84)

史的唯物論から実践の哲学へ(抄訳) レナート・ザンゲリ/小原耕一訳(98)

グラムシと二〇世紀:序論的考察(抄訳)  レナート・ザンゲリ/小原耕一訳(103)
書評 大塚善樹『遺伝子組換え作物―大論争・何が問題なのか』    木村倫幸(107)

   石塚正英/柴田隆行監修『哲学・思想翻訳語事典』   田村伊知朗(110)

   半沢英一『狭山裁判の超論理』    宮前泰雄(112)

   室伏志畔『日本古代史の南船北馬』    添田 馨(114)

   黒沢惟昭『教育改革の言説と子供の未来―教育学と教育運動の間』   藤田友治(118)
大阪哲学学校のページ (121) 季報『唯物論研究』案内    (122)新刊案内 (123)

編集後記  田畑 稔(124)

 

 

第84号 平等文博責任編集 二〇〇三年五月三一日

 

梟vs.雄鶏 イラク戦争と新たな世界秩序 山口 協(1)
特集 死と向かい合う哲学

 生命科学と死と向かい合う哲学 平等文博(5)死のイデアル・タイプス 高根英博(26)

二人称の死と物語 稲岡義朗(32)死から生を考える 梅川邦夫(44)

「君が代」の死生観 藤田友治(58)翔   中村りょう子(71)

「死の自己受容」と「生前契約」   久保下多美子(85)

がん患者になって楽しく死と向かい合う 山口 勇(96)
yuiken交差点 石堂清倫さんの未発表原稿のこと―犬丸義一さんの文(前号掲載)へのお答え    丸山珪一(117)
論文など

 グラムシ像の「争点」探訪(1)―「ヘゲモニー=工場発生論」の再審   松田 博(120)

上からのブルジョア革命と明治維新 Ι    大藪龍介(125)

『日本書紀』の造作哲学―不比等論 南船北馬の向こう側⑤    室伏志畔(136)
書評 高橋準二『科学知と人間理解―人間観再構築の試み』    木村倫幸(150)

   大藪龍介『マルクス派の革命論・再読』    村瀬大観(156)

   横須賀壽子編『胸中にあり火の柱―三浦つとむの遺したもの』    角 伸夫(160)

   松田博『グラムシ研究の新展開―グラムシ像の刷新のために』      田畑 稔(163)
大阪哲学学校のページ (166)  季報『唯物論研究』案内  (167)新刊案内 (168)

編集後記  平等文博(169)

 

 

第85号 服部健二責任編集 二〇〇三年八月三一日

 

梟vs.雄鶏 二一世紀歴史世界のマクロ認識に向けて 田畑 稔(1)
特集 エコロジー運動と思想の課題  特集リード 服部健二(7)

琵琶湖―水と人とのかかわりから暮らしの変遷をみる 小坂育子(8)

豊島の産廃問題と自治の可能性―リパブリック・ミッション 石井 亨(21)

我々はなぜ川辺川ダムに反対するのか 稲岡義朗(34)

生物多様性の人間的意味 福井雅美(46)

環境倫理思想としてのエコフェミニズム 河上睦子(60)

環境世界の人間学的構造とエコロジー問題 服部健二(71)
yuiken交差点  私のエコロジー実践 藤田友治(84)  高橋準二『科学知と人間理解』を読む―第五章「道徳感情と倫理学の課題」について義積弘幸(87)

論文など  グラムシ像の「争点」探訪(2)―チョムスキーとグラムシ 松田 博(91)

グラムシのコモン・センス論素描    尾場瀬一郎(98)

哲学と歴史学―唯物論的歴史観において(2)    西田照見(108)

上からのブルジョア革命と明治維新 Ⅱ    大藪龍介(122)

ペリーのいわゆる白旗「書簡」問題をめぐって―ペリー来航一五〇年にあたり  堀 孝彦(132)二心者の時代批評―藤田省三追悼    室伏志畔(137)

生活世界とアソシエーション(上)―地域社会と生協運動 柏井宏之(143)

書評 松浦範子『クルディスタンを訪ねて―トルコに暮らす国なき民』 木村倫幸(161)

   鶴見俊輔/ダグラス・ラミス『グラウンド・ゼロからの出発』 室伏志畔(164)
大阪哲学学校のページ (169)  季報『唯物論研究』案内       (170)新刊案内 (171)  

編集後記   服部健二(172)

 

 

第86号 丸山珪一責任編集 二〇〇三年一一月三〇日

 

梟vs.雄鶏 エ・アロール?―神戸華僑・オウム麻原裁判そしてバカの壁?笹田利光(1)
特集 振り返ってみたルカーチ   特集リード 丸山珪一(7)

ルカーチは殺人者だったか―岡松和夫「文科の役目」を読みながら 丸山珪一(8)

日本の文学批評にとってのルカーチ―戦後期、とくに丸山静を中心に 深江 浩(14)

私にとっての、私たちにとってのルカーチ(日本篇)ルカーチと福本和夫の道(遺稿) 石堂清倫(38)

ルカーチと宇野弘蔵―「哲学」の位置づけについて 清水正徳(42)

物化と唯物論 田畑 稔(47)

意識のオデュッセイア―『歴史と階級意識』をめぐって 鷲山恭彦(53)

思索へのヒントの宝庫―リアリズム論と『美学』 浦野春樹(64)

ルカーチ民主主義論の過去と現在 早川弘道(68)

私にとっての、私たちにとってのルカーチ(国際篇)

ルカーチと私   イシュトヴァーン・メーサーロシュ(73)

ルカーチから何を学んだか マールクシュ・ジェルジ(76)

煉獄のルカーチ   ニコラ・テルトゥリアン(80)

ロマン主義的マルクス主義者ルカーチが必要だ! ミシェル・レヴィ(85)

人間性擁護の思想家   ギド・オルドリーニ(88)

ルカーチ往還 リューディガー・ダンネマン(91)
yuiken交差点 教育への不当弾圧を許さない 宮前泰雄(95)

論理の力と体験の重さ―三たび「九条」の心とわたし 鈴木 正(97)
論文など

 生活世界とアソシエーション(下)―地域社会と生協運動    柏井宏之(101)

九州王朝の内部葛藤―磐井の乱論 南船北馬の向こう側⑥    室伏志畔(113)
書評 吉田勝次『アジアの民主主義と人間開発』   藤田友治(126)

   室伏志畔『王権論の向こう側』    添田 馨(129)
大阪哲学学校のページ (134)  季報『唯物論研究』案内       (135)新刊案内 (136)  

編集後記   丸山珪一(137)

 

 

第87号 藤田友治/室伏志畔責任編集 二〇〇四年二月二九日

 

梟vs.雄鶏 二〇〇四年のはじめに 山本晴義(1)
特集 九州王朝説の現在   特集リード 藤田友治(5)

歴史思想としての九州王朝説」 添田 馨(6)

古田言説が出現してから―中小路言説とのかかわり    中小路駿逸(14)

多元史観と九州王朝説―日本の古代国家の統一諸説を検討する 藤田友治(23)

九州勢力東遷説と王朝交替説―古代日本の統一問題の研究現状  沈仁安/藤田美代子訳/藤田友治解説(35)

王、大王から天皇へ  王金林/藤田美代子訳/藤田友治解説(44)

殷商時代は中日文化交流の始動期である(抄訳)徐桐生/藤田美代子訳/藤田友治解説(51)

安閑・宣化紀と欽明紀―二朝並立と仏教の伝来 兼川 晋(61)

『古事記』の実像、豊前王朝説 大芝英雄(68)倭の興亡概要―神功王国対卑弥呼王国 福永晋三(77)

皇統の南船北馬 室伏志畔(85)

yuiken交差点  丸山さんへのお答えとお詫び 犬丸義一(98)
論文など

 サバルタンは語ることができる ―第三回国際グラムシ研究会議(メキシコ・プエブラ)に出席して 小原耕一(100)

上からのブルジョア革命と明治維新 Ⅲ    大藪龍介(113)

転移はガンが治るシルシ―がん患者になって楽しく死と向かい合う その2山口 勇(130)
書評 山本晴義『対話 現代アメリカの社会思想』  水田 洋(139)

   沈仁安『中国から見た日本の古代』  梅川邦夫(142)

   太田/高村/本村/鷲山編『治安維持法下に生きて―高沖陽造の証言』 本村四郎(145)
大阪哲学学校のページ (148)季報『唯物論研究』案内     (149)新刊案内 (150)

編集後記  室伏志畔(151)

 

 

第88号 二〇〇四年五月三一日

 

梟vs.雄鶏 ブダペストの風景、ブダペストからの風景―「体制転換」から十五年丸山珪一(1)
特集 近代世界システム、グローバリゼーション、帝国

 グローバリゼーションと新しいコスモポリタニズム 捧 堅二(5)

近代世界システムのゆくえ―二一世紀の世界 川北 稔(22)

世界経済システムと多国籍企業 新保博彦(34)

東アジアの輸出主導型成長と為替体制 宇仁宏幸(44)

論調紹介 「新たな帝国主義」について 山口 協(53)
yuiken交差点  職業と教育 石崎恵二(60)〈一本の太い道〉を探し求めて 義積弘幸(61)
論文など

 グラムシにおける「アメリカニズム」の現代的意義について ―ノート22「アメリカニズムとフォーディズム」をめぐって(上)   小原耕一/松田 博(63)

マルクス主義哲学と環境思想的転回 島崎 隆(71)

上からのブルジョア革命と明治維新 Ⅳの上 大藪龍介(85)

座談会 「現代アメリカの社会思想」(1)出席者 宇仁宏幸 小澤卓也 木村倫幸(司会) 田畑稔 山口協 山本晴義(94)
清水正徳 追悼   清水さんまで亡くなってしまった 西川富雄(107)

清水正徳さんの死を悼んで 山本晴義(109)追悼 清水正徳先生 小嶋康生(110)

酒と談論―清水先生の思い出 服部健二(113)

 

大西文学の状況批判をめぐって―『深淵』論 室伏志畔(115)
書評 中島由佳利『新月の夜が明けるとき―北クルディスタンの人びと』 木村倫幸(122)

   神山茂夫『天皇制に関する理論的諸問題』 藤田友治(125)

紹介 大芝英雄編『大和朝廷の前身 豊前王朝』 西垣祐作(128)
大阪哲学学校のページ (132) 季報『唯物論研究』案内   (133)新刊案内 (134)

編集後記   田畑 稔(135)

 

第89号 山本晴義/木村倫幸責任編集 二〇〇四年八月三一日

 

梟vs.雄鶏 孤高を嫌う現代人 鈴木 正(1)
特集 現代アメリカ思想のプリズム

 リード 自己検証―私の「現代アメリカ思想」研究 山本晴義(5)

M(マーティン・キング)とM(マルコムX)からMM(マイケル・ムーア)へ ―問い直される公民権運動とその遺産 小澤卓也(8)

ヘミングウェイと風土性―文豪を作った女、アグネスへの旅 木村 勲(17)

ローティと連帯としての科学 木村倫幸(27)

アメリカの障害者運動と「自立生活」という思想 ―公民権運動/ベトナム戦争/アースデイ 大野光彦(37)

フランシス・フクヤマの歴史観―へーゲルとマルクスの歴史観の視座から 藤田友治(47)

パースにおける「人間観の転換」の先駆的意義 やすいゆたか(55)

アメリカ左翼と文化左翼の現在 永井 務(62)

yuiken交差点

 山本晴義先生の『対話 現代アメリカの社会思想』からずっと考え及んだこと 中村りょう子(71)
論文など

 座談会 「現代アメリカの社会思想」(2)出席者 宇仁宏幸 小澤卓也 木村倫幸(司会) 田畑稔 中村徹 山口協 山本晴義(74)

諸感情の一覧表作成の試み―スピノザの感情論を踏まえて 石崎恵二(89)

グラムシにおける「アメリカニズム」の現代的意義について ―ノート22「アメリカニズムとフォーディズム」をめぐって(下) 小原耕一/松田 博(100)

外の主体の弁証法―『精神現象学』意識論の解読(上) 榎原 均(110)

上からのブルジョア革命と明治維新 Ⅳの中 大藪龍介(121)

マルクスの疎外論―その最新の解釈の批判的検討 岩淵慶一(134)
書評 常岡雅雄『周縁からの波―わたしがわたしであるために』 木村倫幸(148)

   越境の会編『越境としての古代1・2』 山口保広(150)

   小川弘『哲学から信仰・宗教を見る―哲学類型と信仰類型』 高根英博(153)
大阪哲学学校のページ (156)  季報『唯物論研究』案内    (157)新刊案内 (158)

編集後記  木村倫幸(159)